昭和48年08月08日 朝の御理解
御理解 第16節
「無常の風は時を嫌わぬというが、金光大神の道は、無常の風が時を嫌うぞ。」
金光大神の道は、無常の風が時を嫌うぞ、と、金光大神の道というのは、金光大神が教えて下さる道を、金光大神の道と云う。これは、例えば助からぬ命でも、寿命と思われる様な命でも、一心にお縋がりをして、又生き延びるおかげを頂く、そういう意味も、あるでしょうけれども、それでは、わざわざ金光大神の道でなくても、そういう奇跡的なおかげを受けたという話は、他の宗教でも沢山聞く話である。
問題は無常の風が吹いて参りましても、こちらの方がそれを嫌わぬ心の状態を作る事が、私は金光大神の道だと私は思う。いわば無常の風と云うのは、仏教から来た言葉でしょう、無常の風が吹いて来た時に、それを嫌わぬ心、無常の風が嫌わぬでなくて、それを受ける方の側がそれを嫌わぬ心、それを私は安心だと言う事だと思う、安心のおかげを受けておる事だと思う、金光大神の道は、そういう風を教えるのです。
無常の風は時を嫌わぬ、嫌わずに吹いて来る、やって来るそう言う時に、私共はこちらも嫌わぬ心、それを何時如何なる時であっても、それを安心で受けれる心、そういう道を金光大神は教えておって下さる、そういう道を金光大神の道と云うのである。そこから無常の風が、時を嫌うぞと云う様な、働きが生まれて来る。昨日のご理解の中に、朝のすがすがしさ、昼の忙しさ夜の有り難さそういう生き方が、お道の信心の生き方でなからなならない朝、朝参りでもさせて貰う。
心はすがすがしくみずみずしいまでに、心が弾んでおる丁度朝露を含んで咲く、朝顔の花にも似た様なものである。所がそこが生身を持っておる人間です、それこそ朝顔が咲いておる様な、心の状態ですけれども、それが段々昼近くなって来ますと、もうしぼんでしまう、これはそこに一つの難儀な問題、もう心に掛かって仕方がない程しの問題、まあ死ぬか生きるかと云った問題、さあ先はどうなるだろうかという問題、そういう問題でも、朝、生き生きとして信心さして貰う。
朝参りどもさして貰うて、一生懸命のご祈念もさして貰う、又一生懸命のご理解も拝聴する心が、心がね生き生きと弾んで来る、おかげになるそういう心が生まれて来る。それが私は、朝参りなさる方達の、状態でなからなけりゃいけん、そこまでは頂かなければ、まあ本当に昨夜から心配し続けておったけれども、朝参りさせて頂いた、生き生きとして朝参りさして頂いて、ご理解を頂いたら是は心配いらん、おかげになると、心に確信が出来るほどしの、そういう心確かにそういう心であるけれども。
それまでであるけれども、又心配な事をちょっと見たり、聞いたりすると又不安になって来る。所謂、朝顔の花がしぼんで来る、だからそこん所を昼の忙しさに紛れて、それを忘れておる位な、おかげを頂かなきゃならんと云うのである、それは立ち働く事だけではない、勿論それは、働くという事なんです、けれども一生懸命の御用さして貰う事なんですけれども、年寄りやら出来ない人は、それでも昼の忙しさというのは、もう本気で教えに取り組むと言う事である。
夕方ともなる不思議にです朝のすがすがしさ、昼の忙さそして、やれやれ今日も一日、おくりあわせを頂いて、おかげを頂いたと御神前にお礼申さして頂く時の、心というものはです、もうそれこそ、夕顔の花が宵闇に夕顔が咲いている様に、私共の心にほのかにではあるけれども、また生き生きとした、信心の喜び、これ程願いこれ程縋がらせて頂いての事ですからもう、神様にお委せするより他にはない。
お委せする安らぎというものがある。朝のご祈念に一心にお願いさして貰う、お縋がりさして貰う、そしてそこに生き生きとした、それこそ朝顔の花が、朝露を含んだような、生き生きとした、みずみずしい心が、心の中に頂けて来る、これはおかげになるぞ、心配はいらん不安がなくなって来る、所がね帰らせて頂く10時か、11時頃になると、又不安な事を見たり聞いたり致しますと、又心が動揺する
。そして今まで咲いておった朝顔の花が、しぼんで来るように、自分の心がしぼむ、そう言う時に、元気な心を出さして頂いて、昼の忙しさという、信心に取り組まなきゃならんまあ、今朝のご理解頂いて、ここん所を今日一日本気で取り組ませて貰うという在り方である。その教えに取り組んで一日の御用、忙しさ忙しさという風に、御用にお使い回し頂く様な、おかげを頂かなければならん。
それは或る意味では、紛らわしいかもしれん、それが夕方になる、お食事をさして貰うて、さあやすむ前に、ご祈念をさして貰う時には、本当に今日も朝から朝のお参りした、生き生きとした心から段段心が不安の状態に、又戻って来たけれども、一生懸命お縋がりをする一生懸命働かせて貰う、今日も兎に角まあ今日も立ち行った、今日も未だ生きておったという喜びが御神前で、ご祈念のそういう祈りが、お供え出来るそこにはね、不思議に安らぎが生まれて来る。
その安らぎはどう言う事か、になるとおかげになると、それとは違った所謂今日のご理解で云うと、無常の風が例え吹いて来ても、その無常の風を有り難く、合掌して受ける心が生まれて来ておる、それを私は夕顔の花が咲く様にという風に、聞いて頂いた。これ程お縋がりをして、これ程一生懸命になっておるのであるから、朝の事から昼の事、これ程お縋がりしておるのであるから、今月今日只今を、これ程に大事にさせて頂いて、取組んどるのであるから、おかげになるというのでなくてです。
これ程お縋がりさせて頂いての事であるから、もう右左はあなたにお委せする心が生まれて来る、これが信心の一番最高の心なんです。お委せしきる心それが安らぎである、もうあがきがないもう心配で心配で、もう晩眠られんと云った事が、だから無い事になって来る、安眠のおかげを頂いて、又朝は気持ちの良い、お目覚ましのおかげを頂いて、さあ、又朝参りという、生き生きとした心で、又朝のご祈念が出来る、そういう心の状態にならせて頂ける事を、金光大神は教えて下さるのである。
だから金光大神の道は、無常の風が時を嫌うぞと教えて下さるのは、金光様の信心しておればという事じゃない、金光大神の教えを私共が頂くという事、そこに自ずと道が開けて来る、自ずと道がはっきりして来る、その道を間違わん様に、今月今日只今の時点でです、この道を間違わん様に、どう通るかどう頂いて行くかと言う事を、昼の忙しさの中に頂いていかねばいかん。
そしてそれが夕方になり夜にならせて頂く時にです、是程お縋がりさせて頂いておるのであるからという心がね、不思議と心の中に安らぎをもたらす、その安らぎというのはもう右でもなければ左でもない、もうあなたにお委せする心、それが是程お縋がりしておるからでなからなければ出来んのです、是は是は不思議です。お父さん今晩頂く米はあったばってん、明日はもう炊く米が有りませんよと。家内が云う一生懸命それこそ朝のすがすがし、昼の忙しさ、というてその当時は仕事しとった訳じや無いけれども。
一生懸命に教えに取り組んで間違いの無い道、今日只今の所を実意の限りを、私なりに尽くさせて頂いての夜である。家内がどう言う事云うても驚かんです、もうひとかすりのお米も無いですよと、こう云うその時にはもうすでに、明日は明日という心が生まれて来る、是ほど一心にお縋がりをして、これ程一心に願ってからの事であるから。今日おかげを頂いた、今晩まで食べさせて頂いた事を。お礼を申さして頂いて、明日は明日の、又風が吹こうぞという、安らぎである。
云うならば、無常の風がそこに吹いて来ておっても、それを有り難く受けるという心なのである、その向こうには、又新たな新風と云うか、新たな風が吹いて来ておる、又そこには、生かさにゃおかんという、神様の働きが起こっておる。あぁおかげで今月もまた、生き伸びのおかげを頂いた、そういう繰り返しをさして頂いておるうちに、金光大神の道が、愈々はっきりして来るそういう道を、私共は体得していかねばならんのです。 どうぞ。